アニメ「どろろ」22話 ただ人である事を求めて
- 2019/06/14
- 19:07
目次
- 1、選別し切り捨てる側の身勝手な理屈
- 2、社会から切り捨てた存在が脅威となり社会に牙を剥く
- 3、常識がないために根本的な「人間」「心」だけが浮きぼりになる
- 4、人と鬼神の狭間でせめぎ合う
- 5、もう一人の認められない存在、多宝丸
- 6、正しさとは、多くの人間の自己都合の集合体である
- 7、誰でもない存在が人間になるためには闘争しかない
- 8、商品と資料
個人を犠牲にしたり排除すればみんな無事に暮らせるんだー…
で済む段階を越えてしまう事がある。それで保てるのは
どちらにしろ一瞬なのではないだろうか。
ちょっとまとまりが悪い記事。
選別し切り捨てる側の身勝手な理屈
【どろろ】第22話 感想 炎の馬に乗って : あにこ便
どろろは消えていなければならない者、死ななければいけないはずの者が
存在しようとする物語である。
社会は個人に犠牲を強要し、自分たちだけ助かることに罪悪感を持ちながらも、
犠牲にした者に大人しく消えてほしいと願う。ひどい事をしたけど恨まないで、
消えて、死んで、そうすれば私たちは助かるからと。犠牲にされる側からすれば
あまりに勝手な意見だ。
いじめっ子ってよくそういう理屈を持ち出す。好き放題に誰かを傷つけ
差別したけれど怒られたくないし罪に問われたくもない、悪いと思っていない、
大したことじゃない、あいつが我慢してあいつが許せばいい、
あいつがいじめられるような奴だから。
いじめは保身と無責任の塊だ。
だから大人はいじめる側を擁護したがる。自分がそうだから。
安全な場所から自分に無関係な誰かに自分たちの安全のために落ちてほしい、
消滅してほしいと願うことは誰もがしてしまう。あの国が崩壊してくれた方が
楽だなとか、あの人異動にならないかなとか。
どろろとはそのような話である。国のために犠牲にさせられ、生け贄として
捧げられた百鬼丸はたまたま拾われて生き延びていた。
体を取り戻そうとする。でも百鬼丸が体を取り戻そうとすると国は荒廃していく。
この構図は必然なのかもしれない。全体主義が個人に犠牲を強いるために、
やがて個人が社会や国家に牙を剥く縮図そのものなのかもしれない。
全体の犠牲になった人間はいつか全体を滅ぼしにくる。だけど国家や社会が
ないと多くの人が生きられないので、何らかのコミュニティが形成され、
村になり、町になり、国家になっていき、また社会が出来上がる。
今回の集落のように。歴史とはその繰り返しだ。
社会から切り捨てた存在が脅威となり社会に牙を剥く
百鬼丸は無敵の人どころか体すらない人だが、人外の強さを持っていた。
無敵の人が超絶ハイスペックパターンは驚異になりうる。例えばPSYCHO-PASSや
BANANAFISHも社会が切り捨てたい消したい存在が超絶ハイスペックで社会の驚異に
なってしまうパターン。ランボーもそのパターンかも。ヨルムンガンドでも
戦争の英雄は戦争終わったらめんどくさいから消えてくれないかな問題が出てくる。
そう、戦争の英雄は、戦争が終われば「讃えるべき殺人者」になってしまう。
社会ってひどいけど、その問題はどの国にも起こるようである。
例えば会社だったらリストラした社員が復讐に燃え起業したりライバル企業に
再就職してのちに会社を買収しに来る…それなんてジョブズだよって話ですが、
都合よく消えてくれた上に恨みもしないしむしろ感謝してくれる事まで
期待してしまう一般的思考には無理がある。
社会や組織が切り捨てた存在が全員大人しく静かに死んでくれるなんてありえない。
誰かは槙島聖護になってしまうし、百鬼丸からすれば何で誰一人知り合いでもない
国のために自分が死ななければならないのかという話になる。
醍醐の国そのものが、醍醐景光以外はそれを知らないとしても、
百鬼丸を阻害し、「存在もしない存在」とする事でその犠牲によって
護られかりそめの平和や安定を得た者の集まりだ。
人は平然と人を見捨てるのに、どこかで復讐を恐れている。罪の意識がある。
そういう自分を正当化するために負けたから悪いとか仕方ないとか全体のためだとか
自己責任論を持ち出して正当化し、自分の罪を消そうとする。正しいことを
当然の事をしたと思い込み、相手に許してくれることを強要し、安心して生きようとする。
それでも社会が抹消したい不都合な存在も、生きようとしてしまうし、意思もあるのだ。
個人がそういう意志を持ってしまう事を、誰に止めようがあるだろうか。
常識がないために根本的な「人間」「心」だけが浮きぼりになる
最近つくづく、人とは接し方でできているなと思う。その人に対して周りの人が
どう接するかで人はできている。無人島にたった一人で生きると多分一般的な
意味合いでの人間にはなれない。生物学上の人にしかなれない。
百鬼丸をつくったのは寿海でありみおでありどろろだろう。めちゃくちゃ善人
ばっかりである。善人どころか聖人揃いである。百鬼丸の境遇では誰でも受け入れる
ような聖人しか接しようとしないからでもあるのかもしれないが、運のいい事だ。
百鬼丸がまっとうに育っていたらどのような人であったか分からないが、
アニメ版では真っ直ぐで穢れを知らないというか超絶世間知らずで、
浮世離れしている。ちょっと三日月オーガスに近いものを感じる。
知らないということは普通の人間が当たり前に持つ感覚や感情を持たない。
百鬼丸は目が見えないし、人と自分を比較して相対的に判断する基準を持たない。
誰が美しいとか強いとか弱いとか、そういう劣等感も優越感も持たない。
もっとすごくシンプルで、戦う、倒す、勝つ、生きる、そういう事にのみに
絞られている。
そういう百鬼丸ではあるが、愛だけは渇望しているようなところがある。
とはいえ、愛なんて概念は持たないし、知らない。恋愛も知らない、親も知らない、
友もなかった。本当に一人。愛とか異性という概念がない、それどころか他人や
社会という概念がきわめて薄い百鬼丸に愛だの絆だのといった概念が分かる
わけもなく、もっと根元的で漠然としたそのものみたいな感覚をそのままとらえて、
何となくよくわからなくて気持ち悪かったり、本能的に求めたりする。
そのような感情は百鬼丸が知る言葉では”おっかちゃん”となる。
単なる母ではない。なにかそういう優しくあたたかな人間的なものをあらわす
言葉を他に知らないのである。
人の本能や当たり前の感情でさえ社会の中でそれを共有し確認しあい、
その感覚や概念に名前をつけることで獲得し、学習して積み上げている。
無人島に一人だったら交流もなく、恋愛もなく、だけど敵意もないのかもしれない。
百鬼丸にはその学習がほとんどない。
百鬼丸は生まれる前から社会に消され犠牲を強いられ見捨てられた存在である。
死んで他人の役に立つためだけに生まれてきた。利他100%を他者に求められ、
生きたいというエゴで体を取り戻そうとして国の驚異になり、他者を守りたい
という動機を持った。自分の大事な誰かを守るために結果として国を荒廃させる。
そこには葛藤はない。分からないから。
人のやさしさ、あたたかさ、善意に触れて、失いながらそれだけをたよりに
ここまで来て、どんどん人間になっていった結果、求めるものが腕と目であり、
誰かの幸せを奪う鬼神になりかけているというのは皮肉だが必然なのかも
しれない。
人と鬼神の狭間でせめぎ合う
百鬼丸が求めるのは目と腕だ。しかしそれは単なる腕と目ではない。
みおが死んだとき、百鬼丸は抱きしめる腕を持たなかった。
刃で傷つけないように抱いただけだ。それはずっとどろろに対してもそう。
刃しか持たない、触れる事ができない、誰かを抱きしめる腕を持たない
というのは象徴的である。
そして誰かを、みんなが見ている世界を「見る」事もできない。
そこには魂の色があるだけだ。
誰かに触れたい、守りたい、そして「見る」事で世界に存在したいと
願う事を止める事ができるだろうか。
醍醐の国の幸福とは、平和とは、個人からそのような「人間でいる権利」
と幸福、存在を奪う事でできていた。どちらが正しいかでははかれない。
国家は個人から奪っていく。国を守るために蓄え、人、馬、全て奪う。
疫病が広がらないように村を滅ぼす。もちろんやりたくてやっている
わけではない。だけど奪われた人はどう生きるのだろう。若い男性、
馬、たくわえを奪われ、けが人だらけの村がそこに残る。
それでも負ければもっと悲惨だから仕方ない。国と個人という関係は
常にそのバランスの中でせめぎ合い、奪われるものが増えすぎると
国家でいられなくなる。
鬼神とは何だろうか。そもそも日本では(恐らく他国でも)妖怪や
その他のものは比喩的なものだ。
人の心はせめぎ合っている。生まれつき鬼神と人があるわけではない。
人に傾いたり鬼に傾いたりしながら存在するのが人間だ。
環境が悪くなると鬼に傾いていく。あるいは、個人を平然と見捨てていく
あり方もまた鬼なのかもしれない。そのような、他人を切り捨てる事を
何とも思わない心を鬼とするなら、百鬼丸と醍醐景光に変わりはない。
ご立派な大義の有無だけだ。
BANANAFISHではアッシュを人とどめていたのは英二だが、他の人はアッシュを
修羅にしたがった。非情に人を殺す殺人マシーン、裏世界の支配者。
人ではないとかかわいそうとか、他人の扱い、感じかた、願望の押し付けによって
人は揺れ動く。世界中の人間からお前はこうだと言われると、大抵の人は
自信がなくなっていく。そうじゃないのにと思っても、そう思っているのは
世界で自分一人だけ。誰も信じてくれない。自分が間違っているような
気がしてくる。頭がおかしいような気がしてくる。
英二だけがそうじゃないと言う。どんなに人を殺しても、非情な行いをしても、
そうじゃないのだと。
百鬼丸もそういうものだ。他人から見れば百鬼丸は化け物だ。誰もが逃げ出し
敗北する鵺なんかお話にもならない強さ。それは一般的な人からみれば化物で、
化け物だから排除しようとする。
人を人にするものは何なのだろう。
もう一人の認められない存在、多宝丸
さて、その「おっかちゃん的なもの」が足りない人間がもう一人いる。
多宝丸である。
多宝丸は人間の跡継ぎとしては問題ない人物に見える。
崖の件はやっちまったなって感じだけど、民思いだし、成長もしているのだろう。
しかし、百鬼丸に負けっぱなしなのである。母も百鬼丸の件での後悔から
あまり多宝丸を見てくれない。
トドメに今回の鬼神の扱いである。
原作の記憶が曖昧なのだが、百鬼丸って生まれた時から傑物なのでは
なかったか。鬼神が欲しがるほど頑丈な体やら何やらを持っていて、
選ばれた人間だったんじゃなかったっけ。人外に強いけど、最初から
身体能力その他が異常だったって事。だから取引成立したんじゃなかったっけ。
記憶曖昧だから断言できないけど。長男かどうかだけが問題ではない
という事ですね。記憶曖昧だけど!
まさか多宝丸に百鬼丸の目を持たせ、陸奥と兵庫に腕を持たせるために
失明させ傷を負わせ腕を切断したとは、鬼のような脚本である。
多宝丸は鬼神と取引してしまった。国のため、とは言いつつ、百鬼丸を
倒せなければ本当に領主にはなれないのである。いつまでも百鬼丸の
代わりの嫡子でしかない。
鬼神からみれば、多宝丸が勝てば百鬼丸の体が手に入り、負ければ
醍醐の国が滅びるわけである。ぶっちゃけ鬼神的にはどっちでも
いいんじゃないだろうか。
そして「おっかちゃん」は百鬼丸を追って城から出てしまった。
化物のような赤子を母親だけは慈しんでいた、という描写は原作にも
あったような気がする。しかしすぐ取り上げられてしまう。
どろろに対する接し方。やはりこの人もまた、母親なのである。
メタ的に見れば、どう考えても百鬼丸と多宝丸の戦いを目撃するために
城を抜けだしたとしか思えない。鬼脚本である。
実は多宝丸も、恵まれていながらどこか「誰からも見てもらえない」
ような存在なのだ。母親だけでなく。
本当に存在するには、消去法の次世代領主でなくなるためには、
百鬼丸に勝つしかない…と信じている。
しかし百鬼丸が鬼神に捧げられた時点で、多宝丸の不幸もまた、
決まっていたような気もする。百鬼丸が健在であってもやっぱり
武力では劣っていたのではないだろうか。武力があれば領主として
優れるわけでもないが、つらい。
原作ではばんもんで死んでいる多宝丸、まさか負けて負けて鬼神と
契約するために生かされたとは…。二人の結末はいかに。
正しさとは、多くの人間の自己都合の集合体である
どろろは24話という尺をフルに使い活かし、エピソードを積みながら
地味に静かに話を動かしてきた。伏線と気付かない要素もちりばめながら、
気づけばここにしか着地できないところに舞台が整っている。
そして原作を踏襲しつつ、全体主義と個人、人間というものの本質や
構造を浮き彫りにしていく。なるほど、こういう描き方があるのか!と。
描き方も自然で、あくまでも物語の中の出来事、人物としてそれを
視聴者に分からせていく。百鬼丸は持たないからこそ人間の本質しか
持たないし見えない。それに対しその他の人物は国家や社会の欺瞞もまた
正しさとして持っており、時には人間性を失った鬼のようなあり方として
描かれる。旅をする過程で立ち寄った村のあり方はなかなかひどいもので、
鬼神のひどさはただ暴れているだけである場合が多いが、人のあり方は
まさに鬼であり、非情なものであった。
社会における正しさとは、多くの人が無事に暮らせる事でしかない。
突き詰めればエゴであり、それを全体の正しさというのは卑怯だ。
多くの人はその卑怯さを自覚せず、永遠不変の全体の正しさだという。
突き詰めれば何事も起こらないために誰かを叩き潰す事も正しさという。
社会とはそのようなものでできている。
人として扱われる事、存在を認められることと、ある条件を満たすことは
どちらが先にあるのだろうか。人間としての条件を満たしているから
人間として認められて権利が与えられるのか、人間として接してもらって
存在を承認されるから人間になれて社会の一員になれるのか。
もっと分かりやすく言えば、例えば犯罪者は人間ではないのか、
犯罪者だから人間として扱わなくていいのか、例えばリストラされて
失業したら人間ではないのか、人間として扱わなくていいのか、
最低限の知能がなければ人間として扱わなくていいのかという問題である。
百鬼丸はそのような人間の条件をほぼ満たさないマイノリティの象徴
のような境遇を持っている。
誰でもない存在が人間になるためには闘争しかない
マイノリティの訴えって突き詰めると人間として扱われたい、社会に当然の事
として存在したいという主張と権利の獲得だ。外国人だから申し訳なさそうに
うつむいて日本人より悪い扱いを当然のように受け、差別されても仕方のないこと
と我慢して耐えて、日本人より何倍も頑張ってやっと名誉日本人のような
日本人としては普通の待遇が与えられて、それでも外国人と言われ続ける…
という事がない普通の生活をしたい、人間扱いを受けたいということではないだろうか。
人は平然と何も考えず相手の痛みも考えず差別しすぎる。そういう接し方が
育ててしまう悪意というのは確実にある。
権利の獲得は、何らかの闘争の果てにしかない。持つ側からすれば「普通」
であるので、その「普通」を壊さないと今現在社会に存在を認められない
人間の存在を認めてもらえないのである。
この物語はどこに着地するのだろう。舞台版のオチというのは個人的には
微妙な気もするが…。
多くの場合、百鬼丸が死ぬオチになる。鉄血もBANANAFISHもそういう終わり方だ。
原作では百鬼丸は死なない。手塚としては、そのような「社会を害する者が
罪を背負い死ぬ」という解決方法は「ぬるい」のかもしれない。
確かにその解決はそれしかないし正しいようにも見えるが、社会が根本的に
変わらない終わり方であるし、何より「善良な一般市民ぶる非情な事を
当たり前だと思っている社会の大多数の人間」に罪をつきつけない
やさしい結末なのだ。
BANANAFISHも鉄血も「生き延びたところで社会が持て余す」存在ではある。
戦争の英雄と同じで。だけど切り捨てれば解決!の末路はどろろである。
必ずいつか誰かが牙を剥く。
最近、いくつかの痛ましい事件が起きた。犯罪者予備軍を監視して
阻止すべきだという意見もあった。PSYCHO-PASSの世界である。
であれば、それを生み出す社会的土壌や人間もまた監視対象ではないか?
川崎の事件では近所の人が容疑者を「居候」と呼んでいたそうだ。
それで「挨拶もしない変な人」はないよな…とは思うのである。
ネットさえしていなかったという事で、何を考えて生きていたかは
分からずじまいだが、もしかしたらただ人間として扱われたかった
だけなのかもしれないとも思う。「居候」って例えば「田中さん」
でもないし、何でもないじゃん…。
問題を起こすのは個人だが、種は人々がつくるものだ。
全ての人を受け入れる事は不可能に思えるほど困難ではあるが、
誰かを排除し続ける限り、復讐者はいなくならない。
鬼神化した馬に乗ってやってくる百鬼丸はあらわれてしまうのである。
わーこの百鬼丸かっこいいー(バカ)
商品と資料
時は戦国。 醍醐の国の主である景光は、ある寺のお堂で 十二体の鬼神像に
領土の繁栄を願い出た。 それと引き換えに生まれた景光の世継ぎは
身体のあちこちが欠けており、 忌み子としてそのまま川に流され、捨てられてしまう。
時は流れ、鬼神は景光との約定を果たし、国には平安が訪れた。 そんなある日
〝どろろ〟という幼い盗賊は、ある男に出会う。それは、鬼か人か──。
両腕に刀を仕込む全身作り物の男〝百鬼丸〟は、その見えない瞳で襲い来る
化け物を見据えていた。
原作と根本的に変えている部分もあるけど、自分は現代に合わせて
正解だろうと思っている。結構地味な描き方もしているなと。
地道に地道に地味に百鬼丸が変わっていく事を積み上げていく。
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ニューヨーク。 並外れて整った容姿と、卓越した戦闘力を持つ少年・アッシュ。
ストリートギャングを束ねる彼は手下に殺された男が 死ぬ間際に“バナナフィッシュ”
という謎の言葉を発するのを聞く。 時を同じくして、カメラマンの助手として取材に
やってきた日本人の少年・奥村英二と出会う。 二人はともに“バナナフィッシュ”の
謎を追い求めることに──。
これもMAPPAなんだけど、これもだんだん「人間じゃない」ものになっていく
一方で人間になっていく、最初から人間扱いされていない人間のお話。
人間でいるって難しいよね。普通に会社員として働いているだけで
人を分類し、切り捨て、自分がその上の方にいるという思い込みだけで
それを正当化して自分を支え、そんなものなのにみんな自分が
「人間」のつもりでいるんだもんな…とふと思ってしまう。
東洋経済新報社
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この手の本って定期的に出るけど、どれ読んでも救いがない…
歴史の調査だからしょうがないんだけど。
この記事は善悪と物語論のシリーズなんだけど、次はプリティーリズム
レインボーライブの記事かどろろ23話になる。
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