2012年の記事リンク集

*2012/5/13の記事

言論と社会 2012/5/13
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3724.html
女性誌は女性を幸せにするのか? 2012/5/13
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3725.html
原発と国民 2012/5/13
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3726.html
科学と社会 2012/5/13
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3727.html
アーティストのためのハンドブック デイヴィット・ベイルズ+テッド・オーランド
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3728.html
空の境界 奈須きのこ 小説感想
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3666.html
音楽の話 2012/5/13
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3729.html
ニコニコ学会 2012/5/13
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3730.html
ブログの話 2012/5/13
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3731.html

*PDF配布

「音楽の20世紀と21世紀」PDF配布
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3720.html

*ミクとかネットとか

変わる時代と音楽 2012/4/13 ※PDF未掲載記事
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3723.html
南極点のピアピア動画の感想ほか 2012/3/29
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3719.html
初音ミクとニコ動文化 2012/3/18
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3716.html
機械は人のように歌い、人は機械のように正確に歌う 2012/3/11
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3694.html
ボツネタメモ2 2012/3/10
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3713.html
商業と同人と〜ボツネタメモ集〜 2012/3/9
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3715.html
現状は三方よしにあらず 2012/2/23
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3712.html
ネットが変えつつあるもの 2012/2/11
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3704.html
20世紀型音楽ビジネスの終焉 2012/2/10
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3703.html
初音ミクは未来を見せるか? 2012/2/05
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3700.html
人の見る夢、ボカロの描く夢 2012/1/29
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3692.html
【音楽】20世紀の夢 2012/1/23
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3698.html
初音ミクとエンターテインメント 2012/1/14
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3690.html
初音ミク考 2012年1月7日時点
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3683.html
宣伝戦略ー!!そしてネットミュージシャンの生存戦略 2012/1/1
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3681.html

*更新未定の記事

プライベート的な事情でブログの運営が不透明になってきたので更新が完全に未定な記事。
楽曲分析メモみたいなものをシリーズ化しようかなと思ったんだけど…。
あと経済にマクロ経済とミクロ経済があるように、楽曲を大雑把に構造的に扱う方法ともっと細かく音を
解析できる方法があればいいと思うのだが…それもとりあえず保留。

点と線 2012/1/12
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3689.html
「なんとなく」の理論化 2012/1/11
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3687.html
音楽を数学的にとらえる(仮) 2012/1/8
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3686.html
感情・感動の変換と共有 2012/1/8
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3685.html

*過去の記事

「その他」カテゴリ記事リンク一覧
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3433.html
音楽とビジネス・記事リンク集(2011年で終了)
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3450.html
経済・時事ネタ・記事リンク集(2011年で終了)
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3455.html

ブログの話 2012/5/13

この記事はブログのあとがきのような何かである。



5月13日に更新した記事は連続している。元々はここ1か月で書き散らしたものだったが、それを話題ごとに
割り振って記事にしたものだ。

正直、最初の3つの記事はどうでもいいもので(過去にさんざん書いた話題なので)
メーデーとかGW中に脱原発脱原発ってやたら頑張ってる人もいたみたいなので書いた記事。
脱原発って何も考えずに叫ぶ人たちが自分を殺すのかもしれない。そんな風に漠然と諦めたように思って書いた記事。

自分は人より体が弱い。クーラーがあっても毎年夏はフラフラでまともに歩けない事もある程度に体が弱い。
去年も真夏の停電を恐れていたのだが、去年はそれは回避された。でも今年は?
自分は放射能がどうとか、30年後の発がん性がどうとか、はっきり言ってどうでもいい。30年後に自分が
生きているとは思わないし、原発が停止したまま猛暑が来て火力発電所がいくつか故障でもしたら計画あるいは
無計画停電になって、自分はどうなるのか分からない。

自分は生きる事に関しては多分他人よりずっとどうでもいいと思ってる。体が弱いというのは自分で自分の体調が
どうにもならないという事であり、天候や病原菌の流行などに人よりずっと大きく振り回されるという事で、
それに関しては諦めたように生きるしかない面がある。
でもそれは生きたくないという事とは違う。生きる意志はあっても自分の生死は世の中の状況だとか、
運命の気まぐれみたいなものが握っていてどうにもならないという事。
そういえば「体が弱い」っていうのもなんだか厨二病っぽいのかも…(虚言っぽいっていう意味で)。
クラスに一人ぐらい、体育とか学校とかお休みがちな人っていたよね。幼稚園の頃からずっとそういう感じ。

音楽の記事とニコニコ学会の記事は、そのまんまニコニコ学会を見て書いた記事。



ブログをやめるのは色々な理由がある。当初は他にやりたい事が多すぎるからという前向きな理由があり、
徐々にブログの更新頻度を下げていった。

結局、自分は一般的な他人から見れば色々な意味で異質な異常者であり、排除される存在でしかないのか。
それはブログをやる前からずっと壁だった事でもある。
自分はそんなに変だという事はないと自分では思う。でも一般的な一般人…社会にも人生にも自分にも何にも
ほとんど疑問を持たないような人からすれば、異質で異常なのかもしれない。

自分でも何でこんな大げさなタイトルのブログなのかよく分からないが、社会全体の常識を変えないと自分は
生きられないと思うからだ。ちょっとでも異質なものを排除して自分が普通の枠にいるという事をアピールして
社会に居場所を作る一般人が自分を排除しようとするので自分は社会に居場所がない。

社会は標準的な人間以外生きにくいように形成されている。「コミュニティの一生」というものがあるけど、
社会全体がそうだろう。一般人が居場所を強く主張して、標準、普通の枠に当てはまらない人間をあらゆる意味で
排除していき、一般人だけが生きやすい社会を形成する。
社会について考えたり、意見を持つのは自分がそこに存在する以上はよりよくしようとするし改善しようとするから。
「一般人」とやらは社会に当然のように生きて存在して、問題の解決は一つもはかろうとしないし考えないで
文句だけを言う。

自分は、社会は明るくて自分個人は未来がないと思っている。
最初は自分個人の記事もあったのだ。でもやめた。明るくもないし楽しくもないし解決しないから。
社会が暗く見えるとしたらそれは、何かを解決しようとしてこなかった人数が全体として多すぎるからだ。
そして決められた枠の内側でしかものを見られないし新たに何かを考えたり切り拓こうという意志もない。
それが「一般人」というものだ。そして「一般人」以外を排除してきた。

例えば、全く同じ思考パターンの人間以外いないとすると、その人が思いつかない解決方法を必要とするような問題が
起きた時、対処できない。だから他人がいるし多様性が必要なのだ。大勢人がいて全員が同じ思考パターンじゃ
どうしようもない時があるのに、日本社会や企業ってそれを目指してよしとしているように見える。
つまり今って「ブラック・スワン」なのだ(映画じゃなくて経済とかビジネス書コーナーにある本)。
まあ、未来は片鱗ぐらいは見えているから悲観する事はないだろう。多分見えていれば誰かが何とかする。
誰もがそう思うから今まで何も前に進まなかったのかもしれないけどw全員が「誰かやれよ」って思ってる状況。

で、その「一般人」が絶対視するたった一つの標準や基準を作っているのは「マスコミ」だと思う。
実はマスコミ自身もそういう意識はないのかも?他社を意識しすぎて情報や価値観が横並びになりすぎるから
結果としてマスコミ全体が提示する方向が一方向になってしまうだけで。
競争って多様性をもたらすと思われがち?だけど、実際にはどれも同じようになっていくのかな。現代においては。



他者にとって何かが必要とされなければ人は生きられない。社会に存在する事を許されない。
優秀ならいいのかというと案外そうでもなく、基本的には「うまくやる」スキルがあるかどうかだと思う。
輪の中に入れてもらえるかどうかでもある。だから人はその輪や枠の中が嫌だとしても必死で居続ける。
それが現代社会。

…こんなブログをやっているけれども、本当はどうでもいいのだと思う。全て。
自分が決して入れない輪や枠を外から変えようとしたってどうにもならない。
多分それさえどうでもよくて…結局、自分に関係ない事ってどうだっていい、という事なのかも。
何だかよく分からない。

ニコニコ学会 2012/5/13

よりメモっぽい記事。

*初音ミクとニコ動が示す未来

2012/05/03 09:00 4gamer
ネットとリアルの断絶の終わり――「ニコニコ超会議」が示したものを考えてみた
http://www.4gamer.net/games/140/G014059/20120503001/
日本経済新聞電子版 2012/5/7 16:16
「ニコ動」で進行するコンテンツ革命、熱狂の舞台裏
http://www.nikkei.com/tech/business/article/g=96958A90889DE6E3E3E2E5E6E6E2E2E5E2E7E0E2E3E0E2E2E2E2E2E2;p=9694E2EBE3E3E0E2E3E2E1E7E2E4
2012/5/12 21:36 日本経済新聞
多様性と共感のメディア「ニコ動」、超会議の真意 ネット上の才能を現実世界に解放〜ドワンゴの挑戦(2)
http://www.nikkei.com/tech/business/article/g=96958A90889DE6E3E1E6E0E5E6E2E3E0E2E7E0E2E3E0E2E2E2E2E2E2;p=9694E2EBE3E3E0E2E3E2E1E7E2E4

どの記事もイベントの紹介にとどまらずニコ動界隈の文化について分かりやすく書かれていると思う。

2012年04月26日 15時30分 更新 ITmedia
「研究してみた」に価値を──「ニコニコ学会β」が目指す新しい学会のかたち
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1204/26/news070.html
2012年05月09日 16時31分37秒
JOYSOUNDの最新機種「JOYSOUND f1」は最大5動画コラボに対応、20万曲搭載で6月に発売決定
http://gigazine.net/news/20120509-joysound-f1/
2012年05月08日 11時22分27秒
シャープが人工知能搭載・音声認識・スマホ連携で自走式のロボット家電「COCOROBO(ココロボ)」新発売
http://gigazine.net/news/20120508-sharp-cocorobo/

ニコニコ学会を見て(中継)思ったのは、機材や部品が低価格化しているので個人単位でも結構なものが作れる。
自分で作りたいものを作りやすい時代になってもいると思う。
これって音楽で起きている事と同じだ。大昔だったら企業という形態でないと作れなかったものが個人レベルでできる
ようになってしまっている。いい事だけど、企業という形態の必然性が薄れていくその範囲は意外と広く早い。
「企業があって雇われる」という形態が将来減っていくであろう範囲が意外と広くてすぐに来るって意味でもある。

AKBのキャッチフレーズは「会いに行けるアイドル」だが、初音ミクは「使える二次元アイドル」かもしれない。
「使えるアイドル」を人々が理解するには時間がかかるかもしれない。ニコ動界隈の事も理解できないかもしれない。
でも理解できないと次の時代に行けないのでは?いろんな意味で本当に初音ミクやニコ動界隈で起きている事は
次世代モデルを作りつつあるんじゃないか?

科学は未来だ。
人が初音ミクに未来を感じるのは最先端の科学を次々と飲み込んで形にするからというのもあるだろう。
クリプトンの方針により既存の厳しすぎると言われる著作権制度や業界のしがらみにとらわれなかったという意味でも
未来だとも思う。初音ミクは二次創作で広まったのではなく存在自体が二次創作といっても過言ではないかもしれない。
科学や未来に希望や光を見出すのなら、初音ミクは圧倒的に希望に満ち溢れた光なのかもしれない。

*やりたい事(願望)

自分が願望レベルでやりたい事を少し考えてみた。

音の視覚化、可視化
ミクさんと会話したい
ゆっくりさんとお話したい
クラウド学習会話システム
歌うゆっくり
踊るゆっくり
一家に一台初音ミク


ニコニコ学会ではミクネタが多い。
自分は「掃除機と会話できるなんていいなぁ」と思う方なので…「掃除機としゃべって何が楽しいんだ」と言う人もいる。
ちなみにミクさんとお話できるシステムは既にあったかと。

*心という概念

心と体と知識、知性は別々のものとして語られがちだけどそれらがトータルで形成しているものが心とか個人の人格
というものなのではないだろうか。
人というシステム、心という概念をシステムとして擬似的に作る事はできるか?

恐らく、自分は人より人らしくない。記憶を消失しているためだ。
でも逆に自分程度の人間らしさでよいならそれに近い程度のロボットや会話は可能なのではないか?などと思ってみた。

自分が人らしくないのは多分、経験の内訳が他人と比べて偏り過ぎているためだ。
普通の人が普通に経験する事をあまり経験しないで来てしまったというのもあるし経験の蓄積を消失したせいでもある。
人が自分だと思うものは自分というフォルダの内訳でしかない。
多分、普通という範疇に収まる内訳があり、その枠から出ると異常、異常が多すぎると社会で生きづらくなる。

人や心というのは抽象的な記号であり概念であり曖昧なものだ。
だけど定義してしまえば少なくともその定義のうえでの心や人を目指す事はできる。

情報の集合というだけでは人が人と思うものは作れない。
記憶を蓄積していく、そこから心のようなものが形成されるとすれば…?

*会話共有システム

案外、街中にあーやさんだらけという未来は近いものなのかもしれない。

将来的にはロボットだとして、ARとかスクリーンに投影するほうが簡単ではある。
ロボットよりは先にそういう形で「うちにもミクさんが」という事になるのではないか。
ロボットと会話するよりリップシンクさせた映像と会話する方が簡単だ。

この「会話」なのだが、思考して会話させようとすると難しい。
思考させずに声を出させるだけの方が簡単だ。

例えば、TwitterやSkypeチャットを読み上げさせるだけなら簡単だ。ミク声に特にこだわらないならゆっくりでいい。
この会話の内容を学習できないか?学習というか編集できないか?
そうすると大量の会話のパターンや文章が蓄積されるから、みんなで育てていくような形になる。
使えば使うほどちゃんとした会話ができるようになるという。
データの蓄積や処理はクラウドでして、それを皆で共有して、ハードや映像は好きなものを個人が用意する。

これで「あーやさんシステムもどき」のようなものができて、一家に一台初音ミクのような事ができるのではないか。

*ネットでセーフティネット

↑にTwitterのようなものを組み込むと情報伝達機能や速報性のある情報共有機能を持つかもしれない。
会話共有システムをセーフティネットのように使えないか?という。

管理監視でもあるが、一人暮らしのお年寄りや一人で家にいる時間が多い小学生などはある程度監視されていた方が
安全ではある。
例えば、電話している最中に電話は繋がったままなのに相手から返事がなくなったら何かあったのかなと思う。
大抵は寝てしまったのだろうが、普段から心臓に持病を抱えている人だとしたらまず発作などが思い当たる。
これを応用したしくみを作れないだろうか?
他人を気にしない、見ないようになった事で社会は良くなったのかというとむしろ逆のような気がする。
実社会よりもネットの方が他人は身近ではある。
実名である必要はない。

システムとは合理性や利便性より人によい影響を及ぼすものであるべき、便利で効率的だけど人が不幸になるような
社会システムや常識や慣習は採用すべきでない。
よいシステムを作っても人がだめにしてしまう場合もある。

*家にいるアイドル

初音ミクライブを個人レベルでやるとなるとアミッドが現実的なのかな?瓶の中にミクさんっていうのもあったけど。
初音ミクテーブルライブなんてよさげ…卓上って事ですが。
ニコ生中継もいいけど、あらかじめ同じ設定や環境を作っておけば自宅の机でミクさんが全てのお宅で同時に踊ってくれる
とか…音声は別に流してもいいし。同時に情報を共有できればライブ、なんだと思う。

科学とか、家電とか、初音ミクとか、例えばiPodが流行ったから音楽を大量に持ち歩けるようになったような形があるけど、
信じられないぐらい身近に一体になってるんですよね。会いに行けるのもアイドルのタブー、20世紀じゃ考えられない
事だったけど、どこのお宅に行っても何らかの形でミクさんがいるっていうのもすごいですよねw掃除機がしゃべるとか
オープンソースとか(ルンバ)ちょっと前なら信じられない事で。家電がミニ四駆みたいなものになってるんですよね。

*天才って何だ?

20世紀においては自分の体感や知識を他人と共有する手段が乏しかった。だからせいぜい本を読むとかテレビを
見るとか周囲の人々からしかそれを得られなかったけど、今はそれをリアルタイムで世界中の他人と共有できる。
人は既にその価値観や情報を共有したうえで存在している。そのうえで形成される「自分」とはどのようなものか?
よく分からない。

天才なんているのかな?
実は天才の定義は曖昧で人によってとらえ方が異なる。
多分、天才とそうでない人の差はある意味では縮まっている。学習メゾットの発達、情報伝達の速度の向上と共有。
天才の発見は解読され解説され分析され結果が共有され拡散され学習され一般に浸透し常識化する。
例えば相対性理論とか量子論とか、発表された直後は理解できない人も多かったはずだけど現在ではそこらの大学生が
授業で普通に習うものになっている。

決定的なブレイクスルーや発見は天才にしか出来ないのだとしてもそれを使っていくのはその他の人なのではないか。
停滞が起こらない限り天才やそのひらめきは必要とされず、多くの時期において天才は不要なのではないか。
実は天才の出現が重要だったのではなく、天才の出現によって発見された事を他人が理解しそれが共有される事や
そのスピードこそが重要だったのかも?それが早くなると問題の解決が早くなるのかもしれない。

何が言いたいかというと、多分「天才」の時代じゃない。誰かが発見してそれがばーっと即座に広まって共有されて
皆で好き勝手に使う時代。そのスピードが遅かったから発見者が天才扱いされただけなのかも?皆が理解するまで
タイムラグがありすぎたからその差異や時間が「天才」とされるゆえんだったのかも?
言い方を変えると、天才がいたとして、その人の言う事や技術を皆が理解して習得するスピードが速まっているから
昔ほど天才に価値がない事が多くなっているかもしれない。

だから、何においてもものすごい誰かが一方的に発信して、一般人はただ受け取るだけで、そのすごい誰かを崇めて
一般人ぶって何者にもならずに一生を終える…ようなモデルも終わると思う。そういう段差がある何かじゃない。
多分、既に今そうなっていて、時代は変わっているのだ。旧世代の人たちがその形を今も続けているだけだ。

それって、特別な何かがある人以外はどうでもいい人っていう旧時代よりいい時代だと自分は思う。

*ニコニコ学会βタイムシフト





知覚系・情報処理・ロボットなどが多いかもしれない。時間の都合もあり(一人あたりの発表時間が短い)
技術的な話や数式などは出てこないので知識がなくても楽しく見られるものが多い。

*書籍など

ちょっとこの記事、ピアピア動画も読んでないとよく分からないかもしれないと思った。自分で。
ニコニコ学会も見てないと脈絡なく感じるかも。



南極点のピアピア動画の感想ほか 2012/3/29
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3719.html
2012年の記事リンク集
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3684.html

音楽の話 2012/5/13

gdgdぐっちゃりしたメモです。上手く整理できない。

*「音楽ではない」

例えば、業界の人がネットにある素人の楽曲を「音楽じゃない」とか「曲の作り方が分かってない」と思うのは
稚拙だという以外に「コード進行で作られた楽曲ではない」「既存の音楽理論に沿っていない」という理由も実は
あると思う。じゃあそれがよくないものなのか?というとウケてしまう場合もある。ウケてしまえばそれは人々が
受け入れる音楽であり、そういう音楽に居場所ができる。のちには理論やメゾットもできるかもしれない。

多分、メロディ+コード進行+リズムという音楽の作り方をする人は、そうでない音楽を聴くとそれが音楽でない
ように感じられる。そういう人は音楽を聴く時にメロディとコードを気にするから、聴き取るコードがはっきりしないと
音楽でないように感じられる。それは多分、クラシック畑の人がジャズを聴くと音楽じゃないように感じるというのと
似ているのかもしれない。ジャズはクラシックとは別の理論で別の基準をよしとして作られた音楽であるので
そのように感じられる。また、聴き慣れないジャンルの音楽は不快に感じられる事もある。

コード進行による作曲もトレンドでしかないかもしれない。既に音楽はコード進行だけでもなくなってきている。
最近は気に入ったフレーズやループ素材を繋いで貼り合わせても曲は作れてしまう。でもそういうトラックメーカーが
作曲家としてやっていけるかというと、良くも悪くも似たようなダンスミュージックしか作れないから行き詰まるのが早いし
その作り方だと全体が早く出尽くしてマンネリ化し、知識や技術がないからマンネリをよしとする世界になるのが早い
ような気もする。

*時間と枠

その人が関わった時間が多いジャンルや年代、それに近い音楽をいい音楽だと思い、そこから離れるほどよいものと
思えなくなる。つまり、よく知っているものはいいものに感じられ、よく知らないものは悪いものに感じられ、
よく知らないものや悪いものと感じるものをわざわざ聴き方が理解できるまで聴き込んでまで関わろうとはしない
人が多いので結局自分が知っている、ある年齢までに知った音楽だけがその人にとってのいい音楽になり、
それをいいと思う人数が多いものがいい音楽とされる。全ては突き詰めれば主観でしかないかもしれない。

一般に、10代の頃に聴いた音楽をずっと聴き続ける傾向があるとされるが、それは多分社会人になると時間がなく
新しい音楽をチェックする時間が大幅に減るからだ。まず忙しさがある。まあ年齢による好奇心の薄れなども
あるのかもしれない。だからほとんどの人は20歳前後ぐらいまでの間に聴いた音楽を基準にしていい悪いを
判断する。自分が社会人になった後の音楽は聴き方やいいとされるツボが分からない。全く新しいジャンルが
出てしまうと本気で訳が分からない。これは音楽に限らずある傾向で、自分が忙しくてチェックできない間に
そのジャンルの価値基準やトレンドが移り変わるから。

人は多くの種類の音楽や物事を理解できない。それについて理解できるだけの知識を得るには時間をそれなりに
つぎ込まないといけないから、まずそれにそこまで関わる時間が取れない。
多くの人が「ありがちな曲」「ベタな曲」を好むのは幅広く音楽を聴いて理解するほど音楽を聴く時間を取れないから
だと思う。そういう人数が多いから「いい曲」の範囲がとても狭く限られるというだけで、皆がもっと時間があって
音楽を聴きまくっていたらどういう曲が好まれるのかは分からない。

*次世代理論と視覚化

結局何が言いたいのかというと、

「音楽の統一理論のようなもの、あるいは次の理論、作曲手法としてのトレンドを作って理論やメゾットとして
まとめられるか?」

「音の楽譜以外の形での視覚化」
「ジャンルや年代と個人の好む範囲の視覚化」

この中ですぐできそうなのは一番下、真ん中は微妙(どう視覚化していいか不明)、一番上は可能なのかすら不明。
それに今の段階だとまだ材料としての音の組み合わせや楽曲のパターンが少なくて理論というほどのものにできない
可能性も?それに関して、最初に考えていたのはコード進行理論とクラシックの理論が別々にあってどちらかしか
分からない人が意外と多いという問題で、次に考えていたのがコード進行での楽曲作りとループの繋ぎ合わせ的な
作曲の統合ができたら次世代理論やメゾットになるんじゃないかって事で、それとは別に今後も十二音階って続くの?
って話がウダーの発表の時に出てきて…。

第1回ニコニコ学会βを今更タイムシフトで見たんだけど(いつでも見られるようになっている)、関数をピアノロール
みたいにして音を出してる発表があったんだけど…なんかそこらへんが少し気になる。
↓これ。

竹内関数で音楽生成 2011-11-12 aikeの日記
http://d.hatena.ne.jp/aike/20111112

例えば、楽譜って視覚化ですよね。音を表記するルールを設けて記載したもの。
それを見ながら演奏するのって視覚と音(演奏)をリンク・同期・インプットとアウトプットをほぼ同時に近く
やっている事ですよね。

五線譜ってクラシックで使う楽器向けのものだと思うんですね。それに都合がいいからそういう表記になってる。
ビーマニの縦譜面だって楽譜っちゃ楽譜で、ゲームに適した形態はああだって事ですよね。

メロディとコード進行だけ書いたものもあるけど、あれはジャズやロックではあの方が都合がいいからああなるし、
コード理論っていうのもジャズやロックと基本的に結びつくものですよね。

じゃあDTM・DAWに結びつくものって何なんだ?と。まあピアノロールなんだけど(波形も視覚化か)

楽譜が音階しか示さない(リズム等も記しているが)のは楽器が少なかったからじゃないか?
楽譜が作られた頃、手で人が弾ける楽器のみに限定されていた。
だからそれで問題なかったけど、今は音色の選択肢は多い。

「和音」とは音階の二音以上の響きの事。その理論。
それじゃ不十分。波形と音階を記した楽譜を組み合わせる?

*座標

結局、人が言ういい曲って座標のどの地点に自分がいるか?でしかなく、多くの人の座標の中でのいいと思える
範囲を調べたら多分1か所にものすごく固まるんだけど、それは耳にする機会が多かったから多くの人が聴き慣れて
いるだけで、根本的に人が本能としていいと思う音の組み合わせや配置があるわけでもなく、突き詰めれば主観
でしかないのではないか?
年代によってヒット曲って微妙に違うから(結構違う事もある)、同年代の人が座標上に固まる事になると思う。

この座標のようなものを視覚化して人がいいと思う範囲を調べるのが一番できそうな事ではあるんだけど、
例えばクラシックに寄り過ぎている人はジャズが苦手な傾向があったりするんだけど、つまりジャンルをどこに
置くか、対にするかが定まらない。ジャンルを全部集めて近いジャンル同士で並べていって、その上に人が好む
範囲を置くといいんだと思う。

*樹形図

あと前も書いた気がするけど、フレーズやコード進行の派生調査みたいな。多用されるそれは最初に誰が何の曲で
使ったものなのか?という。それを樹形図みたいにする。フレーズ単位で同じフレーズを使っている楽曲を検索
できるシステムとか。

パクリ問題で思いついた事なんだけど、何かは何かに似てるし、引用やかぶりが0の楽曲ってないと思うんだけど…
音楽って、何かに似た曲ばっかりなんですよね。ロックとかポップスって特に。だから楽曲の数の割にパターンは
意外と多くないというか、いろんな曲を聴きまくってると知らないパターンがなくなっていく。
オリジナリティがどうとか言われるけど、大抵の楽曲にオリジナリティなんてものはない。その人がそのパターンを
知らないから驚けるみたいなものでしかない。だからオリジナリティはいらない、という事が言いたいわけじゃ
ないんだけど。

パターンは出尽くしていると言われるし、まあそういう面もあるんだけど、それでも無理やり何かを新しく作ろうと
するならルールチェンジみたいなものが必要になるからって事をずっと考えてるんだけど、それに関してはあまり
悲観してない。多分、今の作り方が限界なだけだろうと思うから。あと今のビジネス形態。

*音楽と社会

売れるとかいい曲とか、結局は支持数みたいなものだ。現代人の労働時間が多いので、多分「ベタな曲」から進めない。
楽曲や作り手は一人で存在しているわけではなく、それを支持する人間がいないと少なくとも商売は成立しないし
評価は決まらないからいい曲だとも認識されない。聴衆のレベルや価値観も重要なのだ。
聴衆がずっとレベル1なら全体的にレベル1のままみたいな。それは全てにおいてそうで、どんなに素晴らしいものを
作っても売っても世間の人々がその価値を理解できないとしたら売れないから淘汰されてしまう。
音楽に限らず、労働の拘束時間が多いので何に取る時間も少なくなる。だからどれも前に進まないようになってしまう
かもしれない。どれも浅く留まってしまうし一部のマニア以外に売れにくくなってしまう。

どういう社会であれば音楽にとってよいものになるか?
労働時間や労働人数はどちらにしろ減っていく。その事がどうも世間に広く認識されておらず、経団連だの政治家も
それを認識せず、今後も今と同じだけ労働人数が必要とされる前提でものを考えているようだ。海外に工場移転とか
そういう事じゃなく、プログラムで出来てしまって人がいらなくなる事は思いのほか多い。
企業という形態が必然ではなくなる場合がある。それが真っ先に目に見える形で社会に提示されるのは音楽業界
だろうから、音楽がどういう形を取るか?は重要なのかもしれない。ただ産業が壊れただけになるとインターネットは
産業を破壊するものだという例になってしまう。でも上手くいきそうだとは思う。

2012年の記事リンク集
http://shiratamazenzaitsubu.blog14.fc2.com/blog-entry-3684.html

空の境界 奈須きのこ 小説感想

↓のPDFと内容は同じ。若干カット部分あり。

読書感想 2012年4月22日PDF(8P) 
http://docs.google.com/open?id=0B6Bw1byX2MXtenVIc3ZTQVFVSFk

有名な作品なのだが、今更読んでみた。
読書感想というよりはちょっと自分の話が多いかも(それがブログに書かなかった理由)

*人の定義

情景を説明しているのではなく、その情景が登場人物にどう見えているかを説明している。
情景描写も世界観もある意味で感性的であるが抽象的ではない。確かに現実なのだが現実の見え方が…
多分、こういう風に世界を見た事が無い人は大勢いる。もしかしたらそういう人には一行一行が全く分からない
ものなのかもしれない。でもある種の人にとっては世界はこうなのだと思う。
そして自分と世界の境界線、生と死の境界線は曖昧にもなる。
人は同じ世界に住んでいる。でも世界の見え方やとらえ方、感覚は大きく異なっていて、同じ場所にいたとしても
決して同じようには見えていないし、本当は共有してもいないし共感してもいない。そういうつもりになっているだけ。

描かれる感情や感覚が根本的で本質的であり、人が気にもしないほど根本的な問題をあえて定義する事によって
人の境界を曖昧にしている。
世界と個人、個人を形成する枠を曖昧にし、人と感情と感覚の根本を定義し、人を形成する概念、人とは何か世界とは
生きる意味とは…という事を提起し再定義している
のだが、それがあまりにも根本的すぎて理解できない人がいるのでは
ないかと思われる。人は例えば好きとか嫌いとか、楽しいとか嬉しいとか怖いとか、それをそれ以上は掘り下げない。
それをここまで掘り下げたものって小説であるのかな?と。ドグラ・マグラとかだってここまでじゃない。
出来上がってしまっている「人」というものを分解して定義して再構築している。

この表紙や「奈須きのこ」という名前からこの内容は想像がつかない気がする。
人の根本的な部分にここまで迫った、言及した小説だとは思わないだろう。
人としての生き方だとか人生とか、そんなものじゃないのだ。もっともっと、人という自分という存在がともすれば
消されてしまいそうな、自分を形づくる線が消されてしまいそうな、そんな感じ。

静かで現実的で感性的で歪んでいるのに正しいような、美しい文章。文章そのものが美しいというよりは、世界をこう
とらえて文章にする事が美しいというか…どうでもいいような光景をこんな風に見る人もいるのだ。

猟奇サイコサスペンスみたいなものでもあり多重人格ものでもあるのだがこっ恥ずかしい恋愛ものでもある。
ベースはやっぱり「エロのない魔界都市ブルース」かな…一時期流行りまくった多重人格・精神科系・心理学捜査系要素も
あると思う。
あと「同人・サブカル界隈やネットに当然のようにある考えが当然のように飲み込めるか」というのもあるのかも?
これはラノベ全般に言える事なのかも。人はデータでしかないとか、例えばハルヒの「情報統合思念体によって造られた
対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェース」とか言われてすぐにどういう事だか分かるのかっていうと
多分ネットにいない人には分からないんだろうなと思う。そうすると「意味のない何だかかっこいい用語が並んでいるだけ」
に見えてしまうのかも?とも思う。

*死

新しく何かを知る時、自分が意識しなくても以前の自分は死んでいるのだ。古い自分を捨てて新しいものの見方や価値観を
自分は得る。自分はそれを選んだ事なんかない。自分はいつだって新しい方を勝手に選ぶようになっていて、古いほうは
勝手に捨てられてしまうのだ。多くの人は案外そうだと思う。そして自分が変わった事にも前の自分が死んでしまった
事にも気付かない。そうやって自分はいつもいつも自分をある意味では殺して生まれ変わってきたのかもしれない。
自分は意図的に死のうとしている、あるいは殺そうとしているのかもしれない。自分はいつだって新しい価値観や知識や情報に
自分からぶつかっていく。そして前の自分を捨てて新しい自分を得るのだ。
それが自分のあり方であり生き方でありシステム、生存戦略、そんなものなのかもしれない。

自分が知らなかった事実や価値観というのは時にはその人の人生を変えてしまう。そういう何かとの出会いがきっかけで
前の職を捨てて転職してしまう人、人生を大きく変えてしまう人、価値観や考え方が大きく変わってしまってまるで別人のように
なってしまう人。それは音楽との出会いだったり、誰かとの死別だったり、運命の出会いだったりするのだと思う。

自分を強く揺さぶる人に限定しない出会いというのはその人を激変させてしまう。そして人は知る前には戻れない。
残酷かもしれない。こんなもの知らない方が良かったって出会いだってあるかもしれない。そういう出会いがその人にとって
いいものか悪いものかは場合による。

多分その一番誰にでもある形、そして分かりやすい身近な形が「恋愛」なのではないだろうか。だから題材にされる。
扱いやすくて誰にでもありがちな劇的な経験だから小説に、ドラマに映画に漫画に歌にと、あらゆるものの題材に選ばれる。
自分は劇的な出会いや恋愛なんてものはない。だから情報や知識を求めるのかもしれない。
死んでしまった沢山の自分を忘れて今の自分がある。

自分が死ぬ時というのは、自分を殺さなくなった時、つまり、新しい何かを何も求めなくなり、自分を更新しなくなり、
自分に過去だけがあるようになった時なのだと思う。
そういう考え、生き方の自分から見れば、多くの他人は死んだまま生きていて、この国自体も死んでしまっている。
多分それは生物として正しい。だって、新陳代謝を一切しなくなった生物って何か?新陳代謝って何も体だけの事じゃ
ないのだ。多くの人は外見だけは若さを保とうとし、そうする事で若いふり、生きているふりをする。
本当は若くして死んでしまっているのに、死んでいる事に気付かず、何も更新せず、知ろうとせず、過去にしがみついて
生きようとする。

自分を何も変えたくないとき、人は自分が知らないものを全て否定するか見ないようにする。
だけど何かのきっかけで見ないようにしていたのに知ってしまった場合、苦悩する。
だけど人は過去へは戻れない。だからそれを知る前にも戻る事ができない。
これに近い話では、蟲師の「露を吸う群(2巻)」がある。結構胸糞悪い系の話でもあるんだけどw
毎日毎日生まれ変わるので毎日世界が新鮮に見えるという。
愛する事はその前の自分が死ぬ事なのかもしれない。

*記憶

自分は文章を読むのが早いほうで、全てを情報として処理してしまう。小説は嫌いで、それは多分情報として
意味を持たないし他人に興味が無いからだろう。作者にも架空の登場人物という他人にも。
もしかしたらこんなにゆっくり一行ずつ小説を読んだのは初めてかもしれない。

自分にはここに書かれている事が分かる(と思う)。何だか読んでいてつらかった。
自分には本当の自分とか自分の形、自分の境界が分からない。記憶がない事も理由の一つだろうし、生い立ちとか、
何度か死にかけた事があるとか、まあそういう理由だろう。
自分には記憶が無い。忘れたいからなのか、脳のどこかが欠損したのかよく分からない。
救急車で運ばれてから随分経つけど思い出せない事が大半で、それ以前の自分の事が思い出せない。

記憶がなくなると人って曖昧なのだ。本当に。人は記憶の積み重ねでできている。本当に小さな他者との出会いや
知識や経験を数十年と積み重ねてできているものなのだ。人はそれを自覚しないけど、そのどれが欠けても自分が
欠けた事になる。
自分は記憶の大半がなくなった。忘れ方は完全にランダムで、都合のいい事ばかり覚えているわけでもなく、
どうでもいい事は覚えていたり多分重要だったはずの事も忘れているのだろうと思う。
でも思い出せないから大事なものがあったのかすら思い出せない。例えば、好きな人がいたとしても好きな人がいたのか
どうかさえ思い出せないし、大切だった事も思い出せない。

心というのは概念だと思う。具体的に心が何を指すのかは心臓なのか脳なのか?遺伝的要因を前提として生まれ育った
環境の中での他者との関わりや体感としての経験の学習の積み重ねにより形成されていくものが自分で、考え方や思い方
というものもそうした過程で積み上げていくものなのだろう。
「記憶がなくなる」というのはそれらがリセットされてしまうという事。

自分に関して言えば、記憶が残っていても分断されている。記号としての他人のデータのようなものが記録されていた
としても、それに対する思い入れがない。それは繋がらないのか消えたのかよく分からない。
記憶がなくなる前に好きだったもののほとんどに執着も愛着もなくなっていて、そういう意味ではやっぱり自分は
一度死んでいるのだと思う。以前の自分にとって大事だったことや大事だった人がそこにあっても、多分その大事さを
自分は全く思い出せないし、同じように振る舞う事もできないと思う。

自分も幻霧や荒耶のようになるのだろうか?ああいう人にはなりたくないし、自分はそこまで他人を嫌っているわけでは
ないと思う。人の醜さや不完全さは当然のものだから、あるものはありないものはないだけだ。
自分には永遠とか真理とか超越とか完全とかいらないし、それに固執する事も分からない。
自分は今の自分に不満も不安も無い。でもそれは知らないからだ。普通の人が当然のように持っているものの価値が
まるで分からない。分からないから得ようとも思わない。



自分には分かる。普通である事がどれだけ価値があるものか。
ありふれた幸せ、ありふれた愛、ありふれた優しさなんてものは他人には簡単に手に入ったとしても自分には全く
縁の無いものだから。 愛されるには才能がいる。人は当然のように愛される才能を持っているからそれが才能だと
いう事に気付かないし愛されるには前提条件が必要とも気付かない。

影が、あるいは闇が光に焦がれるようなものだ。それは光の世界では生きていけないし存在できない。そのぐらい、
世界ははっきりと分かれている。光と闇に、当然のように他者からの愛を受け取り疑わない人とそうでない人に。

*自分と文章

これ(空の境界)の上巻を読んでいる途中の段階で「もう文章はやめよう」と思った。ブログとかではなく、
文章自体を書かないようにしようと。自分にこれ以上の事は書けない。
自分は文章が書けない。書く事自体は誰にでもできる。でもそれで何かを伝えたり強く訴えかけたり分かりやすく説明したり
という事は誰にでもできるわけじゃない。自分にはそれができない。自分の文章には意味も価値もない。
自分は文章を書く事に固執しないしこだわりもないし本当は興味も無い。ただ思考や情報を伝達するにはこれが唯一であり
最適な手段だろうと思う。だから使う。下手でも伝わらなくてもこれを使うしかない。

自分が文章に固執しない理由は「沢山本を読んでいるのに特に感動した事は無いから」なのかもしれない。
そして文章はどこまで行っても自分にとって情報でしかない。
何の本を読んでも、それが小説でも説明文でも論文でも新書でもラノベでも新聞でも雑誌でも、
「自分より文章を書くのが上手いな」
と思う。本当に。それは当然分かっている事実だからそれについて何かを思う事は無い。いちいちその事実を確認したりも
しない。自分は文章で身を立てたいわけでもないから、その事に特に落ち込んだり傷ついたりもしない。ただ不毛だと
思うだけだ。

奈須きのこ氏や虚淵玄氏といった人たちは、小説に限らず文章で書くという事に向いている、適性があると思う。
こういう思想や発想や観点をしている人にはそれが向いている。
自分はそこまで変わった視点だとか発想だとか着眼点とか世界観とか価値観を持たない。だから文章を書いても
それが特に面白かったり人に対して何かを与えたり揺らしたり揺さぶったりするわけでもない。
自分は自他ともに認める「あらゆる文章表現に適性が無い人」だと思う。

*追記・余談 2012/5/13

「記憶がない」とか言うと厨二病乙wwwとか思われそうで嫌なんですよね。だからブログ記事にする予定はなかったけど
この後の記事2つに続くので記事にしたという。ひとつ前の記事(アーティストのためのハンドブック)はこの記事の前フリ
みたいなものだからあんまり意味がない。
この小説、下巻の終盤はgdってる気がするんだけど…自分がそう思うだけかも。ピークは織の夢が判明するあたりかも。
あそこらへんが何だか儚いというか何とも言えず美しい場面かなと思う。



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